詩人 田中克己

d95dae29.jpg 戦前、戦中、戦後と3つの時代を生きた詩人に田中克己がいる。1911年、大阪で生まれた明治人。父の西島喜代之助は日銀大阪支店の行員で歌人として「西島南峯」で活躍もしていた人物。母、これんも歌人であった。また、母が大阪のミッションスクールを卒業していた縁もあり、キリスト教の影響が少なからずあったようだ。母方の姓である「田中」を名乗る人間がだれもいなくなることにより、克己が田中を名乗るようになり、母、これんが「西島」の姓になるというやや変則的な姓の継承になっている。



 東京帝大文学部東洋史学科を卒業。戦争への過酷な従軍を経て生き残り、後に東洋大学文学部教授、防衛大学講師に。さらに大学紛争の後、東洋大依願退職し、成城大文藝学部教授へ転身する。



 1960年、49歳の時、田中はここ吉祥寺へ引っ越ししている。吉祥寺本町へ住んでいた。この時、コルボウ詩話会を解散している。翌年、父が死去(享年78歳)。その影響で冬にガンの恐怖症に悩んだという。また、そのさらに翌年、「コギト」を共に創刊した2歳年上の肥下恒夫が自殺したことに大きなショックを受ける。(享年53歳)。相次ぐ近しい人の死に影響されたのかも知れないが、この年1962年12月、日本基督教団・吉祥寺教会にて洗礼式を受けて信徒になっている。この時代の牧師は現在の吉岡光人牧師の師でもある先代、竹森満佐一牧師(ハイデルベルク大、東京神学大教授)であった。