高田渡 NHK 知る楽で放映開始

260f0f2f.jpg 2005年4月、ツアー中の釧路で倒れ、56歳で急逝したフォーク歌手の高田渡吉祥寺駅から歩いて十数分の三鷹市内に暮らし、夕方から吉祥寺駅南口の名物やきとり屋、いせやで飲んでいることが多かった吉祥寺人である。飲み過ぎで肝臓の他、内臓や血管など全身がぼろぼろになり、還暦に届かず寿命を縮めてしまった。



 「自衛隊へ入ろう



 は、学生運動時代に反戦メッセージの強烈な皮肉と逆説を詰め込み、一世を風靡した大ヒット曲。この歌の録音としては、1968年の第3回関西フォークキャンプ、1969年の第4回関西フォークキャンプのコンサートのライブ録音が特に知られている。



 岐阜県生まれ。1949年の元旦に生まれた。父親は田豊。非常に癖のある社会主義者の詩人、活動家であった。ミュージシャンの高田漣は息子。最後の活動記録は2005年4月3日、北海道白糠町でのライブ。その後に倒れて入院し、4月16日、帰らぬ人になった。高田の妻が信徒であったため、死の直前に病院で臨終洗礼を受け、葬儀ミサは井の頭動物園のすぐ近く、吉祥寺教会で行われた。



 1969年にデビュー。元々は京都に住み「関西フォーク」を起こした立て役者。岡林信康とともに日本のフォークブームを作り、高田の後ろを吉田拓郎井上陽水かぐや姫らが追いかけていったが、彼らが売れて自分が取り残されても40年以上、庶民であることを貫き、自宅のボロアパートには昭和の遺物、ヒューズが最後まで使われていた。筑紫哲也が数年前に訪問した際もヒューズは現役。売上競争が熾烈なメジャー音楽業界と距離を置いた結果、貧しい生活であったが、本人は自分のやりたい音楽だけを手がけてふらつかなかった。



 この変人的な生き方が、死の数年前から話題になり、映画化されるなどして世代を超えた支持を受けた。逝去の前年に公開された『タカダワタル的』は、ドキュメンタリー映画として異例のロングラン。高田の死後も、若手ミュージシャンがトリビュートアルバムを3枚発売したり、未発表音源のアルバム化が2枚なされたり、雑誌の特集、映画の続編公開などがされている。



 高田は、大正から昭和中期の添田唖蝉坊添田知道親子の壮士演歌の流れを汲み、時事を辛辣に、そして、滑稽に取り上げ皮肉や逆説をこめた作風をとっていたので、一部の固定ファンを大いに惹きつけていた。金子光晴草野心平山之口貘らの現代詩にフォークのスタンダードを組み合わせて曲をつくり上げる作業も得意だった。



  古代ギリシャのポリス社会で民主的討議を行った広場のことを「アゴ」というが、高田の人生遍歴は、フォーク集団「アゴラ」として活動した1960年代後半に始まる。遠藤賢司、南正人、金子章平、真崎義博(ボロディラン)らとアマチュアシンガーの集団を作った。1968年に第3回関西フォークキャンプ(8月9日-11日、京都・山崎「宝寺」にて)に参加し、ここで例の名曲「自衛隊に入ろう」を歌って話題になった。



 東京での活動は吉祥寺が中心。1970年代初頭、吉祥寺に拠点を移して、シバ、友部正人いとうたかおなぎら健壱、佐藤GWAN博、林ヒロシ、林亭(佐久間順平・大江田信)らをまとめてライブを続け、いわゆる「吉祥寺フォーク」の第一人者であった。こうしたご縁で1971年、第3回全日本フォークジャンボリーではジャグ・バンド武蔵野タンポポ団で出場。この吉祥寺派の他に中川イサトや「走れ、コータロー」の山本コウタローが参加している。また、シバ・いとうたかお武蔵野タンポポ団で人気者になった。この時期のことは『武蔵野タンポポ団の伝説』、『もうひとつの伝説』としてベルウッドから紹介されている。



 「自衛隊に入ろう」の他にも、中津川ジャンボリーで有名になった岡林信康らと「三億円強奪事件の唄」、「転回」、「しらみの旅」、「生活の柄」、「長屋の路地に」、「鉱夫の祈り」など数多くのアメリカ民謡に詞を乗せた曲を作った。これらは元々原曲はアメリカ楽曲。『系図』ではタンポポ団と録音を行い、いとうたかおの「あしたはきっと」が収録されている。この好評がいとうのアルバムデビューに繋がった。1970年代半ば以降は、寂しげな哀愁の漂うカントリー・ブルーグラスを多く手がけた。





 2001年、『日本に来た外国詩…。』



 2004年、映画『タカダワタル的ゼロ』 http://www.takadawataru.com



 2008年、映画『タカダワタル的』    http://www.takadawataru.com/takadawataru



 この高田渡が、昨日から週一回・計4回連続シリーズで、NHKの教育テレビ、「知る楽」に採り上げられている。22時25分からの放映。高田渡を師と尊敬するなぎら健壱が語り手を担当。数奇な人生や生いたちが紹介される。



 案内役のなぎら健壱は、ふざけたお笑い芸人のように思われているかもしれないが、元々ギターを使ったフォークシンガーである。カメラやプロレスなど趣味が広く、あちこちの番組に出ているが、モト冬樹などと同じく本来はフォークギターの歌い手であった。きっかけがそもそも高田渡の影響で歌い始めたとあって『日本フォーク私的大全』を出版するなど、日本の戦後フォーク音楽に詳しい。





シリーズ内容  本放送と再放送

第1回 民衆の心を歌に 原点は少年時代 2月3日 2月10日

第2回 “日本語フォーク”の先駆者   2月10日 2月17日

第3回 反骨人生 時代に背を向けて   2月17日 2月24日

第4回 絶頂期の死 受け継がれる歌   2月24日 3月3日



第1回 民衆の心を歌に 原点は少年時代 2月3日 2月10日

高田渡の大きな特徴は、「フォークソング=民衆の歌」を生涯貫いたことだ。「仕事さがし」「値上げ」など、庶民のまなざしが貫かれた歌の数々は流行に左右されない普遍性があり、聴く人の心を癒す。そうした歌の原点は少年時代にある。男手一つ日雇い労働で息子四人を育てた在野の詩人。父・高田豊との生活は、貧しくとも前向きだった。生存する兄弟の証言などから高田渡の原点を訪ねる。



第2回 “日本語フォーク”の先駆者   2月10日 2月17日

自衛隊に入ろう」でデビューした高田渡。その功績は「日本語フォーク」を確立したことだ。多くのフォーク歌手が、流行のボブ・ディランやピーター・ポール&マリーなどをまねるなかで、高田渡フォークソングそのもののルーツを研究。日本の現代詩と組み合わせることで、見事に日本のものとした。日本のロック界をけん引したムーンライダーズ鈴木慶一は「高田渡こそ最もオリジナルなフォーク歌手だ」と評す。



第3回 反骨人生 時代に背を向けて   2月17日 2月24日

関西フォークの人気は、2万5千の聴衆を集めた1971年の中津川フォークジャンボリーで頂点を迎える。吉田拓郎かぐや姫などフォロワーも誕生、この動きに、音楽業界は各社あげての争奪戦を繰り広げた。しかし、高田渡はその波には乗らずに地道な活動を続けた。吉祥寺を中心としたフォークシーンでカリスマ的人気を集め、全国のライブハウスで演奏することを中心とした、商業音楽にくみしない生活に密着した歌を全国に広げていった。



第4回 絶頂期の死 受け継がれる歌   2月24日 3月3日

若手ミュージシャンによる楽曲のカバー、CM起用、ドキュメンタリー映画の公開など、90年代以降再評価された高田渡。「バブル崩壊後、未来に確たるものを見いだせない中、地に足のついた歌が再発見された」とバンドメンバーの佐久間順平は話す。北海道の釧路では死後も仲間たちによる追悼コンサートが毎年開かれ、「今の時代だからこそ、この歌が必要」と、その歌は若手によって今も歌われ続けている。生き続ける高田渡を見つめる。







 * 語り手のなぎら健壱

 

 1952年、東京・銀座(旧・木挽町)に生まれ、以来下町で育つ。70年、中津川で開催された全日本フォークジャンボリーに《怪盗ゴールデンバットの唄》で飛び入り参加したことがデビューのきっかけとなり、72年アルバム『万年床』をリリース。現在はコンサート、ライブ活動の他、独特のキャラクターでテレビ、ラジオ、映画、ドラマ等の出演や執筆等で活躍。



 77年『嗚呼!!花の応援団』で日本映画大賞助演男優賞受賞。2009年第25回浅草芸能大賞奨励賞受賞。たいとう観光大使、自転車Do!会長、自転車活用推進研究会理事を務める。趣味はカメラ、自転車、散歩、飲酒、絵画、落語、格闘技鑑賞、がらくた収集、など多岐にわたる。CDに『万年床』『葛飾にバッタを見た』『日輪』『嘘のような本当の話』、著書に『下町小僧』『東京酒場漂流記』『日本フォーク私的大全』『東京の江戸を遊ぶ』『ぼくらは下町探検隊』『酒にまじわれば』『絶滅食堂で逢いましょう』、写真集『東京のこっちがわ』『町のうしろ姿』など。