[]千川上水

4ff723fa.JPG 千川上水は、かつて江戸北部に飲料水を供給するため、1696年、河村瑞賢の設計で作られた。延長約22キロメートル。神田上水玉川上水と並び江戸の三上水として江戸町民に飲料水を供給してきた人工の川である。



 太宰治が入水心中したことで有名な、あの井の頭公園を貫通していく玉川上水から枝分かれするように分水したものである。埼京線板橋駅の近くを通って文京区湯島へ、そして、海に続く。旧保谷市、旧田無市が合併して西東京市になったが、この西東京市武蔵野市の田畑を主に潤すためにひかれている。



 巣鴨の庚申塚溜池に入るとここからは建設当時から地下に埋められた樋で地下に潜るつくりになっていた。湯島聖堂寛永寺、白山御殿、浅草寺御殿など徳川将軍御成りの各所、そして、神田上水の給水地域が及ばないそれよりも東の地域、つまり、今の文京区、台東区武家屋敷や社寺、町屋八十余ヶ町に給水していた。



 かつては仙川村の太兵衛、徳兵衛の監督があって完成にこぎつけたので、そこから「千川」の姓を上水の名につけた。もう少し南に「仙川」という川や京王線の駅があるが、これも同じ由来。間違えないように使用する漢字を変えている。



 この千川上水は何度か廃止されたり復活されたりしている。古くは1722年(享保7)、一度廃止された。しかし、1880年(明治13)岩崎弥太郎が修理して上水道が設置されるまで使用された。戦後、1959年、この上水は暗渠となったが、地上部分に出ている河川部もまだ多い。ちょうど武蔵野市吉祥寺北町練馬区関町南とを隔てる境界線がこの千川上水になっている。1980年代、上水はそのままに水の流れが完全に止められて干上がった時代があり、その時代は単なる草地、潅木の林になってしまっていたが、護岸工事などで整備されて水流が復活。私が幼稚園から小学校に上がるくらいまでは土の上水路そのものだったので、ザリガニや小型の魚などが豊富に暮らしていたが、工事がなされてからはその後、誰かが放流した鯉や金魚が泳ぐのみになっている。



 ちょうどこの千川上水の周囲は、南側の武蔵野市吉祥寺地域が田中家の農地、北側の練馬区関町南地域が井口家の農地でもあり、今では信じられぬほどの緑が残っていた時代。私はその点、地方で生まれ育った子供たちと遜色のない自然をほんの2,3年間だけだったが、満喫できた時代があった。貴重な原風景である。私にとっては、今の姿からは想像もできない、かつての千川上水の風景が、何ともいえぬ、えもいわれぬ郷愁を誘う、記憶の出発点になっている。