[]吉祥寺村は御鷹場

0ce33cff.jpg かつて徳川が戦国の乱世を終わらせ、幕藩体制を始めた頃、まだ吉祥寺のあるこのあたりは完全な野山に過ぎなかった。このあたりだけでなく「武蔵野」という名が市名の由来になった「武蔵野」は今の渋谷、原宿のあたりから西の広大な一帯全てを言っていた。都市化が進んだ近年はあまり見かけることが無くなったが、かつてこの江戸周辺の村々は渡り鳥の宝庫であり、昭和中期の昭和50年前後まではまだそうした面影が残っていた。特に海抜50m地帯で多摩川の地下水が一挙に地表に現れる池や沼が多い武蔵野市の南北の地や、湿地帯が多かった港北地域などにも多くの鳥が飛来していた。



 そして、江戸時代まではこれら多数の鳥を獲物にして将軍家による鷹狩りが非常に頻繁に行われたフィールドが「武蔵野」であった。吉祥寺に隣り合う「三鷹」は徳川本家と御三家が鷹狩りを行なった鷹場の村々が集まっていたからとか、世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来する(三領の鷹場)などと言われているが、いずれにせよ鷹場がその名の由来になっている。北は前橋、熊谷など、西は武蔵野、三鷹など、南は藤沢、小田原まで、東は葛西あたりまで、江戸を取り囲む周辺は全て徳川の「御鷹場」であった。

 

 徳川の歴代将軍には鷹狩り好きが多いが、特に徳川家康以降の「葵三代」は鷹狩りがたいへん好きであった。家康はまさに年がら年中鷹狩り三昧といった生活。生涯に一千回以上の鷹狩りをしたらしい。三代将軍の家光時代に「御鷹場」が整備されて設置された。生類憐みの令によって綱吉でさえ鷹場からの献上物は受け取っていたし、吉宗により再開されてからは幕末まで続いている。



 鷹狩りをする場が江戸を取り囲んで六地域あって「御拳場(おこぶしば)」といい、鷹を訓練するための場を「御捉飼場(おとりかえば)」という。この鷹場に指定されるとその地域の農民は非常に負担が大きかったと伝えられている。野鳥保護のため御捉飼場の村では狩猟禁止となり、冬場は鳥の餌となる魚捕りの禁止や耕作の制限もあった。病気の鳥や死んだ鳥を見付けたときは届け出なければならなかったし、野原や耕での焚き火やかがり火が禁止、家普請の制限など大変窮屈な生活を強いられ、将軍家が鷹狩りにやってくる数日間の日程はさらにあれこれと調達や奉仕で大変な思いをさせられたらしい。



 今、これらの鷹場について、練馬区石神井公園ふるさと文化館にて展示が行われている。

 

 特別展 「御・鷹・場―徳川将軍家の鷹狩―」



 である。東京周辺にある徳川の鷹狩りゆかりの品々を集めて展示したもので、たった二部屋の展示スペースにわずかなものが置かれているだけなのでちゃちと言えばちゃちな展示(しかも有料)であるが、仕事のついでにそれを見てきた私は、1760年前後に作られたという当時の鷹場を記した地図に釘付けになった。現在、板橋の郷土資料館が所蔵しているものが展示されている。かつての江戸周辺の「村」の名が記されたいたからである。



 吉祥寺があった地は「吉祥寺村」と言われていた。その他にも原宿村、渋谷村、若林村、祖師谷村、中村、下井草村、上井草村、上石神井村、下石神井村、関前村、牟礼村、大沢村、上仙川村、中仙川村、下仙川村、上連雀村、下連雀村、野崎村、野川村、北野村、井口新田、深大寺新田、野崎新田、大沢新田、境新田、上石原村、烏山村、矢上村、篠原村、岸根村など今も地名に残る村名が数多く見える。見ていて大変興味深かった。文字が上下左右を勘案されず、江戸に向かって伸びるように書かれているので首をかしげながら見なければならないのが疲れたが、四ッ谷通り、青山通り本郷通り日本橋通りなどがかつてこの時代から存在していたことにも驚かされた。



 他にも多くの道具や個人所蔵の「鶴御成(千代田之御表)」絵などが展示されている。



 

 特別展「御(お)・鷹(たか)・場(ば)―徳川将軍家の鷹狩―」



 東京文化財ウォークの関連事業として開催されるふるさと文化館特別展です。

 

 江戸近郊の農村地帯では、徳川将軍家の権威を示す儀式として鷹狩が行われていました。今回、徳川家康直筆の古文書や練馬の人々の生活についての資料など56点を展示し、鷹狩を通した江戸近郊農村の姿を紹介します。



石神井公園ふるさと文化館 企画展示室



会期

平成22年11月20日(土曜日)から平成23年1月16日(日曜日) 午前9時から午後6時



観覧料

一般300(200)円、高校生・大学生200(100)円、65歳から74歳の方150円、中学生以下と75歳以上の方無料